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zoom RSS 会報記事 「則天去私」と「明暗」 安諸靖子

<<   作成日時 : 2009/12/18 17:57   >>

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「則天去私」と「明暗」
―松岡陽子マックレイン先生の講演を聴講して―
  安諸靖子

 京都見物から帰宅したばかりの昨年12月、丹治会長から電話があり「来年4月に講演会があるのでまた京都にいらっしゃい」とのお誘いを受けた。会報のお写真で拝見した丹治会長は天女のように見えたので、「いらっしゃい」と言う艶な声は天上からの誘いのようにも聞こえた。天の声に捕まってしまうと逃げるのは難しい。暫く逡巡していたが、春の京都を独り気ままに散策できる好機とも思い、講演会に参加することを決めた。
 帰宅して間もなく、また丹治会長からお電話を頂いた。いろいろお話した後「感想を書いて送ってくださいね」、と言って電話が切れた。浮き浮きと京都に出かけた時は、まさか感想を求められるとは思いもしなかった。大学で学んだことも無く、英文学にも疎い私なので、聞き間違えがあったり、講演テーマの「比較文学から見た則天去私」からは外れてしまうかもしれないが、書きとめたメモを頼りに、帰宅してから考えたことなどを書いてみようと思う。

 講演の冒頭でお話されたのは「則天去私」という言葉についてだった。
 先生は、単純に解釈すると「私心を去って天を手本とする」ということになり、ありきたりの儒教思想のようにも思えるが、中国では「天」という言葉について「空」「天体」「太陽」「宇宙の主体」「進化の神」など25の意味があるので「則天去私」という言葉はいろいろな解釈ができる、とお話になった。岡崎義恵の著書『漱石の微笑』には「則天」と「去私」という言葉は別々な語として使われていたが、漱石が二つの語をつなげて使ったから「則天去私」は漱石の造語だと書かれているそうである。また、漱石自身が筆で書いた文字は残されているが、「則天去私」という言葉について漱石自身が解説した文章はない、ということも教えていただいた。
 漱石は「則天去私」について何も書き残してはいないが、亡くなるひと月ほど前の木曜会で「則天去私」に話が及んだ時、漱石が弟子達に「子どもが一つ目小僧になって現れても、驚かないようにしたい」と言った、という逸話を紹介された。先生はこの逸話から、晩年の漱石は目の前に何があっても穏やかに観察できる心境にあることをのぞんでいたようだ、とお話になった。そして、そのような態度で作品を書いた英国の作家としてジェーン・オースティンやオリヴァー・ゴールドスミスの名前を挙げられた。ゴールドスミスは、『ヴィカー・オブ・ウエークフィールド』で信じられないようなよい人間を創造しており、暖かく優しく小説が善を拡散している、と述べられた。ゲーテが死ぬ前、ゴールドスミスから影響を受けた、といったそうである。先生は、ゲーテの作品にゴールドスミスの影響は見られないとおっしゃったが、漱石はゴールドスミスに習わなかったかもしれないけれど、「則天去私」のありかたとしてゴールドスミスの影響を受けたのではないか、とお話になった。
 オースティンについては、英国留学中の1901年に『高慢と偏見を』を購入して読了しているが、漱石はその本の中に、女子に適当な読み物だが、平凡で、情熱も無く、活気が無いという感想を記していたそうである。しかし、晩年はオースティン作品の写実的描写を論じ、男性作家を凌ぐ優秀な作家だと評価を改めた。教育ある文学者がいい作品を書いている訳ではなく、教育の無い女性でも世の中を解釈する力が自ずから備わっていれば良い作品が書けるといい、作家が書くものに入り込まず、客観的に事件を描くオースティンのありかたに影響を受けて漱石は『明暗』の執筆を始めたと先生は述べ、オースティンやゴールドスミスは東洋の観念を知らなかったかもしれないが、その作品は「則天去私」の精神と繋がっているとお話になった。
 先生の講演が終わった後、司会の丹治会長がご挨拶をされた。「陽子先生が今、漱石山房の木曜会での漱石のエピソードに触れられましたが、お父上の松岡譲先生と芥川などが当事者でした。漱石は、たとえ娘が突然めっかちになったとしても自分は多分ああ、そうかといってとそれを平静に眺めることができるだろうと思う、と言ったのに対し、若い門下生たちはいっせいに驚き、「そりゃ、先生、残酷じゃありませんか。」と声を上げたということでした。漱石はその時、「およそ真理というものはみんな残酷なものだよ。」と答えたと伝えられます。「則天去私」の、あるがままを受容する生き方は非常に重く、私は先生のお話にこの問答を思い起こしておりました。」と感想を述べておられたのが印象に残った。

 丹治会長がおっしゃったように「則天去私」の態度で生きるというのは大変難しいことにおもわれた。先生は講演の中で、漱石の全作品を解説し伝記を書いた小宮豊隆は、漱石が「則天去私」をモットーとして人間からあらゆる欠点を除き、純粋で高潔な人間になりたいと考え、悟りを開いた禅僧のように書いているが、これに対し森田草平は、小宮はセンチメンタルに過ぎない。晩年の漱石はむしろその反対で一層暗くなった。心に動揺があり、修善寺以来暗澹とした時代があったようだと書いている、と話された。同じく、人間としての漱石紹介に努めた江藤淳は、「則天去私」という言葉は曖昧で、弟子達によって作られた禅語だと書いている、とも述べられた。先生ご自身としては、アメリカ留学に立つ前、両親が漱石について話をしているのを聞いていたら、晩年の漱石は心の澄んだ人だったという父(漱石晩年の弟子、松岡譲)に対し、母(漱石の長女筆子)は最後までさびしい人だったと言い、二人の漱石観が激しく対立したことに驚いた、という感想を洩らされた。この話を聞きながら私は、若き日に禅学令嬢と噂された平塚らいてうのことを連想した。らいてうは、主宰した文芸雑誌『青鞜』の発刊の辞に「元始、女性は太陽であった」と書いて華やかに文壇に登場し、女性解放の先駆者として名を残した。しかし、日本女子大学に入学した頃から如何に生きるかに悩み、キリスト教会や禅寺に魂の彷徨を重ねて、禅の教えの中に自分の生きる道をみつけたと自伝(『元始、女性は太陽であった』上巻 大月書店 1971年)に記している。

 平塚らいてう(本名平塚明)は明治19年生まれなので、漱石より19歳年下である。明治39年に日本女子大学の家政科を卒業、翌年1月に九段中坂下にあったユニヴァーサリスト教会付属の成美英語女学校に入った。この学校に漱石門下の生田長江が英語教師として勤めていた。らいてうが入学して間もなく、長江が中心になって学校内に閨秀文学会という文学講習会を発足させた。閨秀文学会の講師として、長江の友人森田草平や与謝野晶子をはじめとする明星派の人々、長江と草平との親交厚かった馬場孤蝶などが招かれた。閨秀文学会は学外にも広く参加を呼びかけたので、岡本かの子も聴講に来ていた。この会で森田草平と出会ったらいてうは、明治41年春、突然草平と塩原に失踪して世間を驚かせ、一躍時の人となった。この時22歳。当初は一人で家出をしたと推測されたようで、3月24日の東京日日新聞は「女子大学出身 令嬢の行衛」という見出しをつけ報道している。「 ▽文学を好み禅学を学ぶ ▽厭世自殺か将出奔か」との小見出しで、「彼の藤村操の轍を踏みて華厳の滝にでも投身せずやと」と心配した父親が栃木の警察に保護願いを出したと書かれている。らいてうの父平塚定二郎は会計検査院次長を勤めた人だが、漱石と同時代に一高のドイツ語教師をしていたこともあり、英語教師をしていた漱石とは顔見知りでもあった。しかし「一風変った夏目先生は、教員室ではほとんど口を聞かず、父もそんなことから、あまり言葉を交わしたことがなかった」という。
 事件後、塩原から戻った草平を自宅に預かった漱石は、馬場狐蝶と相談して草平かららいてうに結婚を申し込ませることを提案。生田長江が使者として平塚家に出向いた。しかし、らいてうはこの提案を「男と女の問題とさえいえば、結婚で全てが解決すると思っている世間の有象無象と全く同じ考え」だと憤慨し、草平との結婚を拒絶した。とはいえ、森田草平が漱石の紹介で朝日新聞に『煤煙』を連載するまで二人の交際は続いていたから、らいてうが草平を嫌いだったとは思えない。明治42年元旦からの『煤煙』連載に先立って、朝日新聞は12月4日に「塩原心中の事実小説」との予告を出している。後にらいてうもこの事件をテーマに「峠」と題する小説を「時事新報」に執筆(大正4年4月1日〜21日)したが、つわりの苦しみと、夫奥村博史の嫉妬のために、心ならずも途中で筆を折ったと自伝に記している。「峠」が未完のため「塩原心中の事実」を探るのは難しいが、『煤煙』には、禅学令嬢と噂されたらいてうの不可解な行動に振り回された草平の姿がよく描かれている。

 らいてうが禅に関心を持ったのは日本女子大学に入学した翌年の明治37年。何気なく覗いた友人の部屋の机の上にあった今北洪川の著書『禅海一瀾』)を手に取り、「大道求于心。勿求于外。我心体之妙用。直我大道也」という言葉に出会ったことによると自伝に記している。らいてうは「道を外に求めてはいけない、心に求めよ」と解しているが、『禅海一瀾』には「知性者多。見情者少。知性則不過知天。見性則得天」という句もあったという。漱石は親友菅虎雄の紹介状を持って円覚寺の釈宗活を訪ね、その手引きで釈宗演に参禅した。当時、宗演は今北洪川の後を継いで円覚寺の二代目管長となっていた。菅虎雄は今北洪川時代から参禅しており、もう一人の友人米山保三郎も洪川から「天然居士」の居士号を授けられたというから、漱石も『禅海一瀾』を読んでいたのではないだろうか。漱石もらいてうも友人を介して参禅体験を持ったが、参禅の動機には自身の病気や、兄、姉が結核を病んでいたという共通点もある。妻鏡子は、漱石が円覚寺に参禅した時「そこの坊さんから、禅坊主になっちゃどうかとすすめられたことなどがあったとかいうことでした」と語っているが、らいてうも浅草海禅寺の和尚、中原秀岳から求婚されたことがある。二人とも僧侶から好かれる人だったらしい。

 らいてうは『禅海一瀾』の持ち主で既に見性していた女子大学の同級生に案内されて、日暮里の「両忘庵」に座禅に通った。ここで、庵主釈宗活に参禅して最初の公案「父母未生以前の自己本来の面目」を与えられ、女子大学を卒業した明治39年の夏に見性。宗活から「慧薫」の安名を授けられた。
 迷いも悟りも二つながら忘れるというこの両忘庵の庵主釈宗活は、らいてうが参禅したころは三十代の青年僧だったが、すでに師家として知られた存在で、人生問題に悩む帝大の学生たちがたくさん座禅に通っており、「だれもみな一様に、極度に緊張した硬い顔の人ばかりで、きびしいものが身に迫る」雰囲気があったという。らいてうは「何人もの師家から、いろいろな禅書の提唱を聞きましたが、この宗活老師の臨済録ほど強く印象に残っているものはありません」と書いている。宗活は、漱石の小説「門」の「宜道」がモデルだといわれている。漱石も宗活に対し「其許は案山子に似たる和尚かな」という句を作っている。
 らいてうの禅については塩原失踪当時「女狐禅だ」と批判する声もあった。事件から暫くたった頃、神田美土代町の日本禅学堂で中原南天棒に参禅したときにも、入室錚々「鎌倉禅なんかやってなにがわかったか、なにもわかっちゃおるまい、お師家さんから甘やかされてそれでほんとうに見性した気になっていたら大間違いじゃ」と一喝されている。
 漱石は明治26年に松島に遊んだ折、当時傑僧の評判が高かった瑞巌寺の南天棒老師に参禅しようとしたが「生来の凡骨到底見性の器にあらずとそれだけは断念致し候」と子規への手紙に書き送っている。らいてうが南天棒老師に接心した時は「七十を余程すぎた、肉づきのいい大柄で、酒好きらしい血色、頑固で、テコでも動かない田舎爺さんのような風貌」の老僧だった、と書いている。らいてうに求婚した中原秀岳は仙台の寺の次男に生まれ、南天棒の松島時代に養子になっているので、彼の一喝には息子を誘惑した女、という偏見があったかもしれない。秀岳は養父南天棒の元から後鎌倉円覚寺の釈宗演のもとに修業に出され、宗演を「おやじ」と呼ぶほどに親しみ、らいてうとのことも相談している。秀岳と宗活は共に宗演の弟子ではあったが、かなりタイプが違ったようである。らいてうは二人について次のように書いている。
 同じ師家につき、同じ公案を透過し、同じように悟りながら、一人は法嗣子となり、早く師家として独立し、一人高くとり澄ました姿で、学生居士たちの接化に努めていられるのに比べ、他のひとりは師家などには絶対にならぬ、なりたくないというような風格で、相変わらず浅黄木綿のきものの上に黒墨の法衣という雲水さながらの姿で、ピチピチとよく立ち働き、あたり構わぬ毒舌や冗談をふりまきながら、やはり集まってくる学生たちを熱心に指導しているのです。

 秀岳が住職を務めた海禅寺は臨済宗妙心寺派の寺で、維新後廃寺のようになっていたのを円覚寺から派遣された秀岳が復興させた。らいてうは「はじめて結ばれた人」は秀岳だと自伝に記している。「不細工な顔をした、口の悪い和尚の内側にある見えないもの」が好きだったというが、らいてうは秀岳を捨てて年下の画家、奥村博史と同棲してしまう。らいてうを忘れかねた秀岳は遊蕩して酒に溺れ体を壊し、51歳で亡くなった。晩年のらいてうは「私があの世にいってから、詫びなければならないのは和尚ひとりだけ。あとは誰にも借りはない」と言っていたそうであるが、遺品のノートの中に森田草平文学碑のリーフレットが密やかに挟まれてあったと小林登美枝が自著(『平塚らいてう 愛と反逆の青春』 大月書店 1977年)に記している。

 講演会に参加する前、初めてジェーン・オースティンの作品を読んだ。「高慢と偏見」は子どもの頃読んだオルコットの『若草物語』が連想された。そして、帰ってから『明暗』を一気に読み、尾崎紅葉の『金色夜叉』を思い出した。『金色夜叉』も作者紅葉の死によって未完に終わった小説である。
 『金色夜叉』を読んでいなかった時は、ダイアモンドに目が眩んだ宮が許婚の貫一を捨て、銀行の御曹司、富山唯継と結婚してしまったために、貫一が高利貸になって宮を見返す悲恋物語だと思っていた。熱海の海岸で、貫一が自分を見捨てた宮を足蹴にして去ってゆく場面が『金色夜叉』のクライマックスだと思っていたのである。
 ところが、物語はここから始まっているのだった。貫一に足蹴にされても、宮は貫一を愛しているのだ。そして、去って行く貫一に「私は考えていることがあるのだからもう少し辛抱してそれを・・・私の心を見てくださいな。きっと貴方の事を忘れない証拠を見せるわ」と叫ぶのである。読者は、貫一を愛している宮が何故富山と結婚するのかが知りたくて読売新聞の連載を待ちわびた。しかし『明暗』と同じく、作者の死によって宮の心は永遠の謎となってしまった。
 つまり、『明暗』の清子も、『金色夜叉』の宮も、或る日突然恋人を捨てて結婚してしまう。しかし、その真意は作者が亡くなったことにより永遠に知ることができないという共通点があったのである。『明暗』を読み終わってから、漱石は『金色夜叉』のテーマを追求しようとしたのだろうか、という疑問が生まれた。『明暗』という謎めいた題名も「金」に対する「明」であり、「夜」に対する「暗」と符牒も合い、『明暗』という題名に隠された意味が浮き出てくるようにも思われた。紅葉の弟子小栗風葉の『青春』を読んだ後に『虞美人草』を読んだ時も、二つの作品に共通するものを感じて驚いたが、『明暗』を読み終わって同様の思いを感じたのは本当に意外だった。

 妻鏡子は『漱石の思い出』の中で、『金色夜叉』が読売新聞に連載された頃、漱石が熱心に読んでいたと証言している。当時熊本には「読売新聞」が行かないので、東京で流産後の静養をしていた鏡子が新聞を毎日送らなければならなかった。それを怠って何回分かをまとめて送ると「ひどく手紙でおこられた」という。にもかかわらず、漱石は「「金色夜叉」にはいっこう感心していなかったようでした」と鏡子は語っている。
 先生はオースティンの作品について、一読者であった時と作家になってからでは漱石の評価が変わってきた、とお話になった。同じように、漱石は硯友社の文学及び『金色夜叉』についての評価が変わった、と考えることは出来ないだろうか。大正2年12月、第一高等学校で「模倣と独立」と題する講演の最後に漱石は次のように述べている。

 「日本人は雑誌などに出る一寸した作物を見て、西洋のものと殆ど比較にならぬと云ふが夫は嘘です。私の書いた小説なども雑誌に出ますが、夫を云ふのぢゃない。間違へられては困る。夫以外のもので、文壇の偉い人が書いたものは大抵偉いのです。決して悪いものぢゃありません。西洋のものに比べてちっとも驚くに足らぬ。唯竪に読むと横に読むだけの違ひである。横に読むと大変巧いように見えると云ふのは誤解であります。」

 一読者として『金色夜叉』に感心しなかった漱石だが、その作品への関心の持ち方、拘りは尋常ではなかったように思う。作家として「則天去私」の心境で書いたという『明暗』には、その拘りを捨てて、無心に取り組んだ漱石の心が隠くされているのではないだろうか。こう考えると、私には『明暗』を「則天去私」の心境で書いたという先生の言葉が心に深く落ちてくるように思われた。

 丹治会長のお誘いがなかったら講演会に行くこともなかったし、『明暗』やオースティンの作品を読む機会を失していたに違いない。また、松岡陽子マックレイン先生のお話から大変触発され、この夏はいろいろなことを学ばせていただきました。お二人に心からの感謝を申し上げます。

  (町田市在住)

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大原美術館を後ろに、会長と筆者(2009.8.1)




虞美人草 「京都漱石の會」会報 《第4号》 p.17-20 から転載

写真提供 筆者



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