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zoom RSS 会報記事 夏目漱石の岡山逗留 横山俊之

<<   作成日時 : 2009/12/10 23:35   >>

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 夏目漱石の岡山逗留 横山俊之

 明治25年7月7日、漱石は、大学の夏期休業を利用して子規と共に初めて関西に旅立ち、京都で二泊した後、10日、神戸に着きました。神戸では、伊万里線に乗船して三津浜港に向かう子規と別れ、玉島線に乗船して船中泊し、翌11日早朝、岡山三蟠港で下船しました(筆者調査)。港から人力車に乗り、旭川河口を左手に眺めながら、明治天皇巡幸の際出来た御成り道を北に向かい、京橋を渡って、旭川西河畔の逗留先、片岡家に到着しました。

 祖先が池田候の馬廻り役であった片岡家は、漱石の次兄、臼井直則(旧姓夏目栄之助)の妻で嫂であった小勝の実家で、直則の死後も、小勝の弟、亀太郎が臼井姓を継ぎ、縁戚関係が続きました。若い未亡人の小勝は、まもなく、旧家同士の縁で、代々池田候の侍医を勤めた上道郡金田村の医師、岸本昌平と再婚しましたが、漱石と同い年で、後に岡山中学英語教師となる亀太郎も婚約して慶事が重なり、漱石は夏目家として祝意を示すため来岡しました。

 上道郡金田村訪問

 漱石は、後楽園や岡山城などを見物し、16日から、亀太郎に案内され、三泊四日で岸本家を訪ねました。御成り道を南に下り、三蟠村から宮通に入って東に向かい、清内橋を渡って百間川を越え、光政村を経て金田村に至る約11キロ、人力車で1時間余りの行程です(筆者調査)。帝国大学文科大学の学帽学生服姿の漱石は数えの26歳、髪の濃い純然たる学生でした。岸本家15代当主の昌平は安政3年5月20日生まれの37歳、学問、書道に秀で才気の走った顔立ちの小勝は文久3年6月29日生まれの30歳でした。

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学生服姿の漱石
 帝国大学文科大学卒業前年の明治25年12月撮影。同年7月の岡山逗留中もこのような風貌であったと思われます。大正6年1月発行 新小説臨時増刊「文豪夏目漱石」より


 漱石は、座敷に上がるや否や、制服の膝をきちんと折って座り、初対面の昌平に挨拶しました。昌平には、銚子織りの縮(常陸国鹿島郡波崎地方を原産地とする木綿縮で、銚子港から船積みされていたので銚子ちぢみと呼ばれていたもの。現在千葉県文化遺産)を一反、小勝には、濃茶色の小さい矢絣模様がハイカラな縮の浴衣を一反、それぞれ、紙で包んだ祝いに水引をかけて渡しました。後に昌平は、その着物を見るたびに「これは夏目の金ちゃんがくれたものだ」と懐かしがっていたそうです。

 小勝は、夏目家で暮らした頃から、東京大学予備門予科に通っていた漱石を可愛がったらしく、岸本家でも、漱石から「姉さん、姉さん」と呼ばれていました。小勝は、幸西で釣れた大きなチヌを笹蒸しにして供し、漱石と亀太郎はその珍味を満喫しました。昌平も、翌17日、吉井川河口から児島湾に舟を出して湾内の鳩島に上陸させ、林間に酒肴を温める趣向で二人を饗応しました。18日は、漱石一人で、九蟠の浜に褌一つで出かけ、大蛤をたくさん掘り出しましたが、無鉄砲にも、褌を外して、ぐるぐる巻きにして持ち帰ったそうです。

 子規学年末試験落第

 19日朝、金田村から片岡家に戻ったばかりの漱石の元に、子規から、落第した旨の手紙が届きました。午後に書かれた7月19日付子規宛書簡では「…試験の成績面黒き結果相成り候由鳥に化して跡を晦ますには好都合なれども文学士の称号を頂戴するには不都合千万なり君の事だから今二年辛抱し玉えと云はゞなに鳥になるのが勝手だと云うかも知れぬが先ず小子の考えにてはつまらなくても何でも卒業するが上分別と存候…」と、文学士になるべく、辛抱して卒業だけはするように勧めています。子規の行く末を思いやり、また、子規の卒業を心待ちにしていた正岡家の経済的事情も考えていたようです。
 鳴くならば 満月になけ ほとゝぎす
 この書簡に添えられた岡山ゆかりの句で、卒業に臨んで泣けと鼓舞しています。

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小勝(岸本家御遺品)
 背がすらりとした、色白の、鼻筋の通った面長の、崇高な美しさが感じられる佳人。半襟が大きく覗いているところは漱石も好む装いと思われます。学問を尊び、書道に秀で、地唄の三味線も上手く、金田村では小勝姫と呼ばれていました。美人薄命、明治27年10月20日、32歳で亡くなりました。


 旭川氾濫による大洪水

 そのわずか四日後の23日夜半、暴風雨で水嵩の増した旭川が氾濫して大洪水になりました。8月4日付子規宛書簡は「…当家は旭水に臨む場所にて水害中々烈しく床上五尺程に及び23日の夜は近傍に立退終夜眠らずに明かし…」と、洪水の話題で埋め尽くされていますが、水の手の片岡家も大きな被害を蒙りました。漱石は水が出始めると、「大変だ」と叫んで、本を入れた柳行李を担いで一人避難、天神山に辿り着き、眠らずに明かしました。まもなく、旧知の光藤亀吉と遭遇し、天神山に近い旧弓之町にあった離れ座敷に案内されました(筆者調査)。8月1日、漱石がどこからともなく戻ってくると、片岡夫人は「あんたみたいな人があるもんか。自分の物だけ持って逃げて。流されて死んだかと思うて心配したのに。」と言ったそうです。一人で避難させたら、本来の避難場所以外へ逃げて、行方不明は8日間に及び、夫人も、安堵と、それまでの心配や苛立ちが重なったようです。家の都合で里子や養子に出された漱石の拠り所は「黄金と強いたる制服の釦」に象徴される学問でした。家や土地や家族に対する思いは片岡家の人々と違ったかもしれません。さすがに不便な生活が続き、 8月10日、岡山を後にして松山の子規の元に向かいました。

   (岡山市在住 医療法人操南ファミリークリニック院長)

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亀太郎(岸本家御遺品)
 小勝の実弟。弟思いの小勝が夏目家で暮らしていた頃、岡山から呼び寄せられ、夏目家から正則英語学校に通いました。英会話が得意で、岸本家にもしばしば外人を連れて訪ねました。後に岡山中学英語教師になりました。


謝辞
 執筆の機会を頂いた椿伊津子様に深謝致します。「京都漱石の會」の発足、句碑駒札の建立を始め、意義深い御活動に敬意を表します。また、岸本家御遺品の小勝並びに亀太郎の写真を御提供頂き、私の調査研究に快く御協力頂いた仁摩宏様に感謝致します。

資料
漱石全集 第22巻 書簡 上:明治22年〜明治39年  岩波書店1996年
伊原仙太郎:西大寺つれづれ  伊原 治 発行1986年12月
荒 正人:増補改定 漱石研究年表   集英社1984年 
江藤 淳: 漱石とその時代 第一部   新潮社1970年



虞美人草 「京都漱石の會」会報 《第2号》 p.18-19 より



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