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zoom RSS 会報記事 漱石と「満韓ところどころ」 牧村健一郎

<<   作成日時 : 2009/12/15 01:15   >>

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 漱石と「満韓ところどころ」 牧村健一郎

 中国・遼東半島の港湾都市・大連は、中国近代史を象徴する都市である。
 19世紀の終わり、南下政策を推し進める帝政ロシアは、寒村だったこの地を清から租借、ダルニーと名づけて町を築く。大広場を中心に道路が放射状に伸びる都市計画は、パリをモデルにしたといわれ、レンガをふんだんに使った重厚な建物をいくつも建設した。
 日露戦争で日本戦勝後、大連を含め旧満州(中国東北地方)におけるロシアの権益は日本が引き継ぎ、大連も日本の支配下に入る。1906(明治39)年、満州経営を主導する国策会社・南満州鉄道会社(満鉄)が設立された。
 夏目漱石が、二代目の満鉄総裁になった旧友中村是公に誘われて、大連の埠頭に降り立ったのは09年9月4日だった。
 漱石は埠頭で働く無数のクーリーを見て、その紀行「満韓ところどころ」で、「大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚らしいが、二人寄るとなお見苦しい」と書く。また「チャン」や「露助」という表現も記している。
 漱石のこうした記述は異民族への差別ではないか、と一部で批判され、「満韓ところどころ」は漱石作品には珍しく、評価が定まらない作だ。
 2009年は漱石満州紀行100年にあたり、私は昨年3月末、旧満州を訪ね、足跡をたどるとともに中国人学者とこの作品について、語り合った。
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 大連は高層ビルが林立していた。
 漱石が泊まった旧ヤマトホテルや満鉄本社ビル、横浜正金銀行などの風格ある建物は残っており、今も使われているが、すぐ近くにそびえたつ近代的なビル群に、主役の座をうばわれていた。改革解放後、大連は急成長し、いまや上海に次ぐ現代的な都市に変貌していた。
 90歳になるという大連外国語学院の元教授・李成起さんは、中学のころから習い続けた日本語が達者で、日本近代文学を専攻する温厚な老教授だ。今回の旅で通訳をしてもらった人の恩師だったという縁で、お目にかかった。
 「漱石先生は中国でも文豪として尊敬されています。私はとくに「こころ」に感心しました。人間の深い魂を描いています」という老教授も「満韓」の表現についてはこういった。「先生(漱石)のような偉大な文学者が、言ってはならない言葉を使ったのは大変遺憾に思っています。中国人を、文学者ではなく、戦勝者の目で見ています。あのクーリーたちは今の大連市民の祖先ですよ」
 漢文、漢詩を学んだ漱石は中国文化を深く尊敬しており、差別意識はなかっただろうが、帝国主義の時代に入った明治人として、友人同士の気楽なやりとりのつもりで、書いたのだろう。これを中国人が不快に思い、批判するのは、また当然だろうと思った。 
 
 漱石は「満韓ところどころ」の旅行中、大連で二度、営口一度講演をしている。「満韓ところどころ」で漱石は、大連での講演のくだりをこう書いている。
 「大連についてから二、三日すると、満洲日々の伊藤君から滞留中に是非一度講演をやって貰いたいという依頼であった。(中略)伊藤君の話によると、余の承諾を得て講演を開くという事を、もう新聞に広告してしまったというんだから、たちまち弱った」
 営口での講演は、「満洲新報」明治42年9月21日に「営口倶楽部講演」として掲載されたことが十年ほど前、判明し「趣味に就て」というタイトルで岩波の新しい漱石全集(1996年)に入った。もっとも、「承前」とあり、講演の後半部分しか現存しない。
 大連での講演については、長年よくわからず、全集には「掲載紙誌の有無についても不詳」とされていた。
 帰国した私は、満洲日日新聞を調べれば、その「広告」や講演会についての記事が載っているかもしれない、と千葉・幕張のアジア経済研究所の図書館や国会図書館に行き、明治末の満洲日日をマイクロフィルムで読んでいった。その過程で、「伊藤君」が満洲日日の社長に就任したばかりの実業家・伊藤幸次郎であることが確かめられた。彼とは旅行前、東京でも会っている。
 ほかに、42年9月11日に「社告 満洲日日新聞社主催 第二回学術講演会 両三日中大連に於いて開会 弁士 夏目漱石氏 日時会場は追て決定広告可致候」というまさに「広告」が、かなり目立つ扱いで掲載されていた。さらにページを繰っていくと、とんでもないことがわかった。9月15日から五日間にわたって、第1面に「物の関係と三様の人間」(於本社主催第二回学術講演会 夏目漱石氏述)というタイトルで、大連での漱石の講演内容が詳しく掲載されていたのだった。
 「満洲殊に大連は南満洲鉄道の起点であって、世界の交通機関として欧州より東洋に到る鉄道の終点である」と述べ、さらに人間は「物と物との関係を明(あきら)める人」「物と物との関係を変化せしむる人」「物と物の関係を味う人」の三種があり、第一は科学者、哲学者、第二は鉄道会社員や軍人、第三は自分のようなもの、と説明している。当時の漱石の人間観が平易な言葉で表現されている。四百字原稿用紙にして、22枚ほどの分量がある。
 漱石は研究されつくされており、講演を含め未公表の「作品」はもうないと思われていた。岩波版全集の元編集者は「驚いた。内容もとても面白い。大発見だ」と言っている。この講演の発見については、朝日新聞に載せたほか、その全文を、雑誌「論座」(2008年9月号)に掲載した。

   (朝日新聞記者)



虞美人草 「京都漱石の會」会報 《第3号》 p.10-11 より



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