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zoom RSS 会報記事 漱石の長野への旅と夏目家の信濃 永井貞寿

<<   作成日時 : 2009/12/16 21:55   >>

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 漱石の長野への旅と夏目家の信濃 永井貞寿

 修善寺の大患(明治四十三年八月二十四日夜 静養中の菊屋旅館で大吐血 500g 脳貧血を起こして入事不省三十分)の後、漱石の病状は容態の好転もあり、小康状態が続きますが、身辺は煩悶と繁忙が続きます。
 十月十一日、修善寺から担架に乗せられ、内幸町の長与胃腸病院に再入院します。
 十一月九日、漱石の恋人説が有力な、大塚楠緒子が大磯で死去(三十六歳)。漱石は入院中で葬儀に参加できず、「有る程の菊 抛げ入れよ棺の中」の、手向けの句を贈ります。
 入院中に越年。 明治四十四年を迎えます。
 二月二十日留守宅に、文部省から文学博士号授与の通知が届きますが、これを辞退。
 二月二十六日漸く退院。
 退院後、百日余りの明治四十四年六月十七日、漱石は信濃教育会の招きで、『夏目家父祖の地』と言われる長野へ、講演旅行に旅立ちます。鏡子夫人同伴です。
 このいきさつについては、漱石の日記に「昨日妻が長野へ喰いついて行くと言い出して聞かない」とありますが、夏目鏡子述の「漱石の思い出」の中に、面白い記述があります。

 六月の中旬頃、長野の教育会で講演に来てくれろというお頼みがありまして、自分でも彼方の方には行ったことがないので、行く気になってお引き受けいたしました。
 けれども私の身になってみれば、また汽車に揺られて折角治った體をいけなくするようなことがあってはいけないというので極力反対するのですが、(中略)
 夏目は夏目で、講演に行くのに女房なんか連れて行くのはいかにも見つともよくないからよせととめます。しかし私はどうしてもついてゆくとがんばります。
 そこへ丁度子供が少し熱があるかしていたので、小児科の豊田鐵三郎さんがお見えになりました。すると夏目がいいこと幸いに、
 「ねえ、豊田さん、今度長野へ講演に行くのにこいつがどうしてもついて行くと言い張るのですが、小学校の先生の集まっている中に、女房なんて連れて行くのはみっともないですね。」と助けを求めました。 すると豊田さんが、「いいえ、そんなことは決してございません。僕の先生の弘田博士なんかは、講演にいらっしゃるときなんかは、決まっていつも奥さんとご一緒です。」という返事に、そういう先例があってはと、とうとう夏目の方が負けて、一緒に行くことになりました。

 六月十七日 朝八時十分 上野停車場から乗車。軽井沢で小諸小学校長他の出迎えを受け、車窓から浅間山。漱石の評価の高かった島崎藤村の「破戒」の舞台小諸、名月姨捨山、川中島合戦の妻女山、茶臼山などの説明を受けながら、十七時〇六分、病み上がりの身には厳しかったであろう九時間の長旅を終えて長野停車場到着。駅頭に星菊太、長野師範学校長他大勢が出迎え、その夜は犀北館泊(現存)。ここにもまた、大勢の訪問客があります。その中に修善寺の大患の時大変お世話になった青年医師森成麟造さんが居り、彼が新しく病院を開いた高田に招かれます。
 翌十八日朝は善光寺参詣の後県会議事堂で「教育と文芸」の題で講演を行います。同所では前日から第二十六回信濃教育会総集会が開かれており、第一日目(十七日)は900名あまりの参加者でしたが、当日は1300余名の参加者と漱石人気の高揚が見られます。
 講演終了後、森成氏に伴われ、妙高山を眺めながら彼の郷里高田に赴き、その夜は高田中学校長、高田師範学校長、高田新聞記者等と会食し、森成氏の新居に厄介になります。
 高田は「坊ちゃん」で、清がお土産に欲しがった『越後の笹飴』発祥の地で、元祖笹飴本舗高橋孫佐衛門商店が森成胃腸病院の近くにあり、それをお土産にいただいたことが想像されます。
 翌十九日は、森成氏の依頼で、彼の母校新潟県立高田中学校で中学生を相手に語りかけます。
 「狭い高田気質を脱し日本的となり、更に世界的とならなければいけない。更に世界的というのは基人格なり或いはその事実なりが世界に知られるようにならなければならないということであって、東郷大将や乃木大将が知られておりますが、実は大将が偉い訳ではなく、日露戦争が世界的な注目を集めていたので大将はこれに関係して居られた故の名声なのです」
と語ります。
 ここでまことに興味深いのはこの内容が警察や県の学務課で問題視され、漱石が危険人物だということでマークされたという記録があります。この時は豪雨の中の講演で大声を張り上げた様ですが(マイクなし)鏡子夫人も「漱石の思い出」の中で―講演は私も聴いたことがないので、その時も森成さんには誘われましたが、雨の中だったもので、とうとう行かずにしまいました。と記しています。講演終了後、雨の中、汽車で上杉の本拠・直江津へ入り、雨も上がり帝石砿業、五智国分寺(親鸞上人の旧跡)を訪ねます。
 翌六月二十日朝、高田を発ち長野から篠ノ井線で松本へ向かい姨捨山、田毎の月の棚田等を眺めて松本で下車。松本城天守閣に登り、その夜は上諏訪牡丹屋に泊まります。
 翌六月二十一日は朝七時頃車で湖岸を通り、諏訪神社下車。春の宮、秋の宮に詣で、午前中高島小学校で、ご当地の大人相手に『我輩の見た職業』という演題で講演。

 世の中が段々進歩すると職業も益々専門的、分化的となり、夫故、常に常識がなかったり欠けたりして誠に困る。困るが博士にはなる、と笑いを誘います。
 そして職業自身は、本来の目的から言うと面白いものではない。職業としての文学は嫌なもの、忌むべきものだ。凡ての職業はお金を取る手段に過ぎない。職業自身が本位ではない。酒を飲むのが本位になる。即ち天職とも思われる。人はこの天職を得んが為に苦しむ。そんな次第故、成る可く時間を割いて文学を研究なさってお互いの接触点を多くし、ともに共に楽しむことを望みます。
と結びます。

 ここで漱石の五日間に渡る長野への講演旅行も終わりますが、最後に鏡子婦人は語ります。

 「旅中いろいろ食べ物に気を使って、そんな硬いものはいけないとか今度はパンがいいでしょうとか口やかましく申しまして、ともかく何事もなくいい具合に元気で帰って参りました。自分でもそれで身体に自信がついて安心したようでしたし、私も大変安心致しました。」
と。

中村是公と塩原、日光、上林(長野)
(二年続きの長野行き)


 明治四十五年は七月三十日、明治天皇崩御、改元。大正となり、八月十七日から中村是公と連れ立って塩原、日光、軽井沢、上林(長野)と十五日間の旅に出ます(是公は芸者同伴)。
 当時、是公は満州鉄道総裁で、明治四十二年九月から十月初めまで、およそ四十日間の満韓旅行に招待し、漱石が金がないと言うと五百余円を用意してくれます。
 また、修善寺の時は見舞金として三百円、入院費用の足しにと三百円、計六百円を贈ります。漱石の明治四十年の東京朝日新聞入社時の月給が二百円だったことを考えると相当な金額です。
 持つべきものはよき友ですが、漱石の次男、夏目伸六著「父、漱石とその周辺」は、中村是公について次のように記しています。

 おそらく、父が死ぬまで「お前、お前」と呼び捨てにしながら、学生時代と少しも変わらぬ親しさを以って、付き合うことの出来た相手は、中村是公さん以外に誰もいなかったのではないかと思う。大学時代、あれ程、仲の良かった正岡子規に対してさえ、後年父は、
 「妙に気位の高かった男で、こちらが無暗に自分を立てようとしたらとても円滑な交際の出来る男ではなかった」
といっており、今、彼が生きているとしたら、自分との交際も随分と違ったものになったろうと漏らしている。
 もっとも是公さんの方は、子規とは凡そ対蹠的な人柄であって、其の点が、趣味の上に於いて、相許した子規とは別に、又、父と気が合う理由でもあったようだが、この是公さんも、実を云うと、子規と同じく、昔から、父に対しては、いつも兄貴風を吹かせて、大いに威張っていたらしい。唯、何故か茫洋として、自分は無論、まじめなつもりでいるだろうが、傍目には、なにごとにも間の抜けて見える点が、どうやら、彼の真骨頂でもあったようである。

 塩原は森田草平と平塚らいちょうの煤煙事件の心中行の舞台で、米屋別館に泊まります。
 二十三日、二十四日 日光泊。 二十五日前年に続き軽井沢に向かい追分の油屋泊。(現存) 二十六日は長野経由で自動車、馬車と乗り継ぎ志賀高原の入り口上林に到着、塵表閣(現存)に泊まり、二十九日まで滞在。
三十日赤倉泊まり。八月三十一日、午前赤倉発、夜、上野停車場着で呑気な半月間の旅を終わります。
 二年続けての長野への旅でしたが、今回も漱石は旅に出る前よりも元気であると記されています。信州の空気や風光があっていたのでしょうか。

 又、この旅行について鏡子夫人は「漱石の思い出」の中で―呑気な旅―として次のように述べています。

 塩原へ行き、それから日光、日光から軽井沢、上林温泉、赤倉と回って、八月三十一日に、半月ぶりに帰って参りました。
 これは至極呑気な旅で、中村さんがお馴染みの新橋柳橋あたりのきれいどこをお連れになっての旅でして、夏目さんとご一緒ならとお宅の方でも安心なさるというので、何でもかんでも一緒に行けと誘われての上の、つまりだしに使われて参ったようなものでした。お宅のほうには、夏目のほかに連れがあるのは大方内緒だったのでしょう。
 行く先々で、中村さんのお馴染みの御茶屋の女将さんや女中さんに手紙やはがきを出すのに、君は字が上手だからとかそのほうが専門なんだからといって、夏目に代筆おさせになる。(中略)ところが奥さんのところにやるお手紙ばかりは、まさか代筆ではつまらないと見えて、あの不精者が自分で几帳面に書いていたよ。などと申しておりました。


夏目家の信濃(夏目家発祥の地)

 稿の初めに、長野は漱石父祖の地と申しましたが、小宮豊隆著「夏目漱石」岩波書店版 昭和十三年刊 改版昭和二十八年に系図として

 「坊ちゃん」の中でに坊ちゃんが「・・・是でも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。只智慧のない所が惜しい丈だ。・・・」と、いきまくところが書いてある。旗本の中に「夏目」というのがあって、それが清和源氏で、多田の満仲の後裔ではないまでも、満仲の弟の、従五位上下野守多田満快の流れを汲んだ家であるということは、『諸家系圖纂』だの『寛政重修諸系図』だのに目を通したことのある人なら、おそらく誰でも知っている。
 漱石の家は、「夏目」は同じ「夏目」でも、旗本ではなく、名主であった。
 然し本家に伝わる夏目家系図によると、漱石の家の「夏目」も亦旗本の「夏目」と同じように、多田の満快から八代目で、頼朝から功によって信濃国夏目村の地頭職に補せられたという、二柳三郎大夫国忠の次男、夏目左近将監国平を祖とするということになっている。『坊ちゃん』のこの中の一節は、漱石が嘗て何かの機会にうちのものから聞かされた家の系図が、遠いこだまのように響き出たものではないかと思う。

と記されており、松岡譲著「夏目漱石」にも同様の記述があります。ではご当地ではどうなっているのかと申しますと、現在の長野県郷土史研究の第一人者、小林計一郎先生も長野郷土史研究会機関誌「長野」第七十八号の中で

 私はよくいろいろな方から手紙で質問を受けます。たとえば「夏目漱石全集」を編集していた荒正人氏から、長野市篠ノ井川柳地区にある「夏目」という地名について、何度か質問を受けました。漱石の夏目家は信州の出身だといわれ、漱石自身、そのことを川柳村役場へ問い合わせたことがあると地元に人にお聞きしました。
 更級郡に夏目という郷があったことは確かで、(「信濃史料」十五の二百四十三頁)、「夏目系譜」には「源満仲の弟満快の八代目国忠が、奥州征伐の功で源頼朝から信濃国夏目村の地頭職を与えられ、夏目を姓としその子孫が三河に移った」とあるそうです。(「姓氏家系大辞典」)漱石の家は三河から江戸へ移った、いわゆる草分名主の家でしたから、この夏目家の系統だったのでしょう。

と、このことを裏付けています。
 又、郷土史家だった地元の、故、春日学氏も

 夏目氏は「尊卑分脉」によると、村上氏の流れを汲む二柳氏の分かれである。
 下石川に夏目平という地名があって、夏目氏発祥の地と伝えられる。
 昭和十五年頃のこと、村役場へ勤め郷土史の研究家でもあった柳沢平助氏から聞いた話に、夏目漱石の遺族から村役場へ「私共の祖先は貴村の出だというが、その昔夏目氏がいたと言う事実があるかどうか」との照会があった、という。
 私はその手紙を見ていないので、本人が亡くなってしまい、役場の文書も町村合併で散失してしまった現在、真偽の程は知る由もない。
 一説によると、国平の孫の九郎国泰は三河国へ移り、後徳川氏に仕え連綿今日に及ぶという(更科郡誌、更級郡埴科郡人名辞書)子孫とは、旗本の夏目氏を指しているものと思われる。旗本夏目氏は屈指の高禄で、代々左近将監と称しているが(武鑑)。夏目氏の祖、国平が左近将監と名乗っていることからみて、いかにもかかわりがありそうである。
夏目氏が下石川の夏目平から発祥したとすれば、湯ノ入神社の山城は、夏目の山城と考えるのが当然だろう。(同「長野」九十七号)

と述べています。
 下石川・夏目平は善光寺から南へ三里半、姨捨山へは南へ三里の地です。
 八百年の昔、ここから漱石の祖先が姨捨山を眺めたであろうことを想うと、歴史へのロマンを感じさせられます。
 私の住居は夏目平と姨捨山の中間にあります。
 尚、この原稿は、第一回京都漱石会でお話したものを改稿、加筆致しました。

   (長野県千曲市稲荷山在住)

 参考資料
  「漱石全集」(岩波書店)
  荒正人著「増補改訂漱石研究年表」

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第一回例会にて


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二柳の古民家:築後180年




虞美人草 「京都漱石の會」会報 《第3号》 p.16-18 より



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