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zoom RSS 会報記事 らいてう研究から漱石をたずねて 安諸靖子

<<   作成日時 : 2009/12/16 22:41   >>

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 らいてう研究から漱石をたずねて 安諸靖子

 この度は会報「虞美人草」をお送り頂き有難うございました。
 写真や絵が満載の上、ご寄稿の方々のご文章も伊津子様のご研究も心惹かれる内容ばかりで、興味深く拝読いたしました。またご丁寧にお電話まで頂き、会員にしていただけたことを感謝しています。

 昨秋「椿わびすけ」様のブログで「京都漱石の會」の情報を拝見し、伊津子様が会報の第二号に「漱石の女弟子 藤波和子」をお書きになっていることを知りました。藤波和子に関心を持っておりましたので、是非読んでみたいという思いはありましたが、「京都漱石の會」は何となく敷居が高い感じがし、入会がためらわれました。それで、昨年末に京都へ行く機会がありましたので、御池大橋まで散歩に出て漱石の句碑を見た後、書店や京都文化博物館、府立図書館などを廻って会報「虞美人草」を捜してみたのですが、どこでも見つけることができませんでした。滞在先のホテルでその話をしましたところ、フロントの方がご親切にネットで伊津子様のブログを見つけて直接お電話で問い合わせて下さったとのことでした。ホテルの方から「会費をお払いすれば会報を送って下さるそうです」との伝言を頂きましたので、ホテル近くの郵便局で会費をお振込みして帰京したという次第です。

 会報を読み、また伊津子様と電話で打ち解けたお話しができましたので、高かった敷居を一気に飛び越えてしまったような気が致しました。けれど、受話器を置いた途端、子どもの頃より父から「このお調子者!」とよく叱られた自分の性格を省みて、失礼が無かったかしらと心配しております。お目にかかったときに、電話ではお伝えできなかった事をお話したいと思いましたが、当日は伊津子さまもお忙しく、ゆっくりお話しする時間がないかもしれないと思いましたので、お手紙を書くことに致しました。

 会報を拝見したかった第一の理由は、伊津子様が第二号にお書きになった「漱石の女弟子 藤波和子」に強い関心があったためです。既に退会しておりますが、以前「らいてう研究会」に所属しておりましたので、今でもらいてうとその周辺にいた人のことが書かれたものがあると読んでみたくなります。この会は『平塚らいてう著作集』(全八巻 大月書店)が出版された直後の1985年、著作集の編集者のお一人であった米田佐代子氏の「著作集をみんなで読みませんか」という呼びかけを受けて集まった人たちにより発足しました。最初は「平塚らいてう著作集を読む会」という長い名称であったように記憶しています。私は米田氏の友人で女性史研究家の折井美耶子先生のお誘いを受けて第二回の集まりから参加させていただきました。著作集を読み終わった頃のことだと思いますが、会の名称は「平塚らいてうを読む会」になり、更に1995年には「らいてう研究会」と名称は変わりましたが、常にらいてうとらいてうの生きた時代や、らいてう周辺の人々についての勉強を継続し、その集大成として2001年5月に大修館書店から『『青鞜』人物事典 110人の群像』(らいてう研究会編)を出版いたしました。青鞜にかかわった女性88人、その周辺にいた男性13人、青鞜社員が思想的な影響を受けた外国の作家や思想家9人を網羅しました。執筆担当は、各自が興味ある人物の名前を挙げふりわけました。私は小栗風葉の妻加藤籌子を筆頭に、主に硯友社系の作家に師事した女性作家数人を選びました。男性は青鞜時代のらいてうの恋人だった(らしい)西村陽吉と伊藤野枝の最初の夫辻潤を担当しました。この本の中に収載された物集芳子、和子姉妹と加藤籌子、そして青鞜同人で漱石の女弟子の一人だった神崎恒子(本名は子がつかない)の頁をコピーして同封いたします。

 神崎恒子が漱石に入門したのは、明治42年ごろ「目白の国文科の多分二年生の時だったと思ふ」と昭和16年に出版した著書『明日の女性』(長崎書店)に書いています。漱石の日記には恒子の名前が何度か登場しますが、明治43年6月26日には次のような記述があります。

 「山田茂子、神崎恒子前後して至る。神崎のお嬢さんが山百合と菊の花をくれる。山田の奥さんが稗蒔の鉢をくれる。」

 神崎のお嬢さんについて、私が今見ている漱石全集20巻(1996年 岩波書店)の脚註には神崎氏について「神崎嘉蔵。当時東京朝日新聞の評議員であった」と記され、恒子はその娘と「思われる」と記載されていす。恒子を担当した井上美穂子さんによると、恒子の父の名前は「神崎東蔵」です。帝大英法科卒後、地方裁判所判事、弁護士や衆議院委員も務めたということなので、別人の疑いが濃厚です。神崎東蔵は漱石より先輩ですが、恒子によれば、日本で最初のボート選手として活躍し、大学では有名だったそうです。(最新の漱石全集では訂正されているかもしれませんが、とりあえずお知らせしておきます)

 恒子の著者『明日の女性』をいつどこの図書館で見たか記憶が無いのですが、確か漱石との関係が記されていた部分を筆写してきた記憶があったので、散乱するノートを探しやっと見つけましたら1990年ごろに使っていたノートの最後のページに書き写しがありほっといたしました。コピーではないので写し違いがあった時はお許しください。

 著書によれば、恒子が漱石に入門するきっかけは、当時日本女子大学で西洋美術史の講義に出講していた帝大教授の大塚保治の紹介によるとのこと。恒子は教室から出てくる「大塚保治先生を待ち構へて、夏目さんに紹介して頂きたい、といきなり不躾なお願ひをした」と記しています。らいてうは大塚教授の講義は「幻燈でラファエルやミケランジェロの絵が見られるので」人気が高く、講堂がいっぱいになったと書いていますが、恒子も大塚教授の授業だけは最前列に席を取ったということです。大学で行事があると妻の大塚楠緒子も女子大に来ることがあったようで、恒子は大塚夫妻と漱石が親しいことを知り、「其頃作家になりたい一心に燃えていた」ので大胆な行動に出たとのこと。初めて漱石にお目見えした日、「あゝ神崎君か、それなら知ってゐる。神崎君のお嬢さんが小説を書くやうになったかなあ」と漱石が言ったそうです。また或るとき何か書いてもらおうと短冊を持参すると「お寺の唐紙だね。」と悪口を言いながら次のような漢詩を揮毫して呉れたとのこと。

   日似三春永  心随野水空  (夏目漱石)
   牀頭花一片  閑落小眠中

   (日は三春に似て永く 心は野水に随ひて空し
   牀頭に花一片 閑かに落つ小眠の中)

 漱石の漢詩を調べてみましたら、この詩は明治43年10月1日の日記に記されていました。

 神崎恒子と相前後して漱石の見舞いに来た山田夫人は同じく脚註に「東京帝国大学法科大学教授山田三良夫人」とあります。山田三良についてのネット情報によると、夫人は旧姓江川しげ子といい、日本女子大学の国文科二年に在学中に山田三良との縁談が纏まり、明治37年5月に結婚とのこと。山田三良は文学に情熱を持つ若い妻の気持を察して、同じ帝国大学の卒業生である漱石に妻の弟子入りを頼んだのではないでしょうか。しげ子がいつごろ漱石に弟子入りしたかはわかりませんが、夫も祖父も有名な方なのでご子孫をお訪ねしたら何か情報が得られるように思います。

   (町田市在住)



虞美人草 「京都漱石の會」会報 《第3号》 p.19-20 より



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