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zoom RSS 会報記事 香りに染まりて ―漱石と仏教の香り― 佐々木惠精

<<   作成日時 : 2009/12/09 00:46   >>

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香りに染まりて
 ――漱石と仏教の香り――
             佐々木惠精

 本年(平成二〇年)春に定年退職する際に、それまでを振り返って〈本当に多くのご縁をいただいて育てられて来た〉という感慨を持ちました。それにつけて、元龍谷大学学長の千葉乗髏謳カ(仏教史学の権威、この四月にご逝去)がたびたび述懐されていた「香光(こうこう)荘厳(しょうごん)」のことが想われて一層その感を強くしております。先生は、大学入学当時、面白くない授業には出ないで寄宿先の禅宗寺院の自分の部屋にいると、ご住職から「どうして大学へ行かないのか」と問われ、「今日は先生が休講ですから」と答えると、「授業がなくても大学には行きなさい、キャンパスにいるだけで大学の香りに育てられるのです。親鸞聖人も『染香人(ぜんこうにん)のその身には 香気(こうけ)あるがごとくにて これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳とぞまうすなる』と詠われています」と諭されて、それ以来大学には極力出るようにしました、と述懐されています。長いあいだに培われたよき環境によき香りがただよい、それによって育てられるものだと言われるこの諭しのことばについて、二十年ほどお世話になった大学生活を振り返って本当にその通り、と思わされた次第です。私どもは、自分の努力で自分の力で今の自分があると自負と自慢を持ちがちですが、振り返って見ますと、さまざまなご縁をいただいて、よき先輩、よき友、あるいはよき環境の下で育てられて来たと言えます。釈尊の思想の根底にある「縁起」(あらゆるものはいろいろな因縁によってこそありうるという道理)の視点に立てば、おのずとそのように見られることになります。
 実は、仏典でも同じような言葉にしばしば出会います。たとえば、釈尊以来の言葉が残っていると見られる『法句経(ほっくきょう)』には、
「花の香りは風に逆らっては進まない。栴檀もタガラ花もジャスミンもその通り。
しかし徳ある人びとの香りは風に逆らっても進み行く、徳ある人はあらゆる方向に薫る。」(第五四詩頌)
「栴檀、タガラ、青蓮華(しょうれんげ)、ヴァッシキーという、香りあるすべての中で、徳行ある香りが最上である。」(第五五詩頌)
「タガラや栴檀の香りは微かであるけれど、徳行ある人びとの香りは最上で神々にも薫る。」(第五六詩頌))
と詠われ、徳ある人には香りがあり、真実の道を歩み真実に触れている人の香りは何の障りもなく四方にただよい、それによって人々は導かれると讃えられています。
 このような「香りに染められてきた」との思いをもって、夏目漱石の作品に触れて、と申しましても、ほんの少しのぞき見をさせていただいただけですが、「漱石の香り」が、作品に、その言葉一言ひとことに漂っているように感じられてなりません。たとえば、会誌の名前とされている『虞美人草』は、漱石が大学を辞職して朝日新聞社に入社し、作家専門となられて最初の作品とのことで、全神経を集中されての迫力と緊迫感のある張りつめた文章であることを感じますが、当然のことながら登場人物の描写に漱石の人間性、漱石の生活の環境が醸し出されていて、「漱石の香り」を感ずるのです。甲野さんの日記の一節で始まる第四節には、京都の文化の雰囲気とともに、仏教思想の一端に触れ、漱石自身が仏教的な視点をもって人生を見つめ、歩もうとされていたことを感じさせます。しかも、それは、甲野さんと宗近君との会話で触れられる「第一義諦」といった仏教の卓越した視点に胡坐をかくと言うのでなく、「生死」の世界(迷いの世界)、色相の世界(この物質世界)にある人間として人生の苦悩を、喜怒哀楽の苦闘を生きて行くことをまともに受け止めて人生を見つめている、そのような漱石の姿勢を感じます。三年後の作品『門』では、宗助が参禅する場面が相当のページを取って描かれています。谷崎潤一郎の評では「宗助が鎌倉へ参禅に行く所は、いかに見ても突飛であろうと考える」とされていますが、一途な恋の結果、重い道義的な責任のようなものを背負って社会的に下積みな生活を送らざるを得ない宗助の心の内を示す一つではないかと思われます。ここでも、参禅した禅寺で与えられた公案の答えをさとることができず空しいままに下山する宗助に、漱石の人間性が映し出されているようです。実際に鎌倉で参禅された経験があるとのことですが、この宗助の姿には、親鸞の厳しい宗教的自己批判の姿が感じられてなりません。親鸞は、自らを「煩悩具足の凡夫」(自分中心の欲望などでいっぱいの凡夫)と言い、「いずれの行も及びがたき身なれば地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」(どのような修行も及ばない身なので、地獄が私の決まった住まいなのです)と述懐されている、その厳しいまなざしを漱石のこのような文面に感ずるのです。
 あまりにも仏教的に偏向した見方だと非難されそうですが、漱石の作品に流れる漱石の生き方、人生観、それは吉田精一氏の解説にも述べられるように「人生の第一義を道義と見て、利己主義を批判し、我執を戒める思想は漱石の全作品につらぬくもの」であり、それが、仏教的な真実なるもの、「真如なるもの」に根ざしている、そのような香り豊かな作品となっているように感ずるのであります。
 ご縁をいただいて漱石の文学にほんの僅かながら触れさせていただく機会をいただき、漱石の香り、漱石の生きられた場の香りを(それもまたほんのわずかですが)感ずることができたように思います。これを機会に、さらにその香りを味わうことができますように、と願っているところです。

       (前京都女子大学教授)



虞美人草 「京都漱石の會」会報 《第2号》 p.6 から転載



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