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zoom RSS 会報記事 インフルエンザと漱石の周辺  横山俊之

<<   作成日時 : 2010/04/29 21:03   >>

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 インフルエンザと漱石の周辺  横山俊之


一 インフルエンザとパンデミック

 インフルエンザの世界的大流行はパンデミックと呼ばれ、過去最大のパンデミック、スペインかぜ(1918-1920)ではウイルス性肺炎や二次性細菌性肺炎による重症化が若年層で目立ち、本邦でも二三〇〇万人が罹患、三十八万人が死亡しました。その後、アジアかぜ(1957-1958)、香港かぜ(1968-1969)、ソ連かぜ(1977-1978)によるパンデミックを経て、季節性インフルエンザの流行が繰り返されました。しかし、平成二一年(2009)、三十年振りに、ブタ由来インフルエンザウイルスA型亜型(H1N1)によるパンデミックが起こり、本邦でも十一月下旬をピークに第一波が認められました。

二 「三四郎」に描かれたインフルエンザと検証                                                

 漱石の時代では、明治二二年(1889)と明治三三年(1900)にパンデミックがありました。「三四郎」(1908)にも、インフルエンザが登場します。年の瀬も近い寒い夜、演芸会見物をして下宿に戻った三四郎は、翌朝から発熱、頭が重くなり、学校を休んで寝ます。昼飯を食べて眠った後、発汗して気がうとくなります。見舞いに来た与次郎との会話中にも発熱して寝込み、その晩、往診医からインフルエンザと診断されます。翌日は常体に近くなりますが、枕を離れるとふらふらします。三四郎は、飯も食わずに、仰向けに天井をながめ、寝たり覚めたりするうち、自然に従う一種の快感を得て四-五日で回復します。
飛沫感染リスクの高い閉鎖空間で過ごした半日後の発病は合理的潜伏期間です。増殖力の強いウイルスにはIL-1と呼ばれる生理活性物質を介して体温上昇で増殖を抑制するので、初発症状の発熱も合致します。頭重は副鼻腔炎の症状で、加温加湿の不十分な外気が気道に直撃して感染を促進します。学校を休んで寝たのは正しい判断です。IL-1には体温上昇作用以外に、ウイルスと戦う胃の負担を軽減する食欲低下作用や体力消耗を防ぐ睡眠誘導作用があります。
 ウイルスは気道または消化管に侵入しますが、三四郎に気道症状は乏しく、主に消化管に侵攻しています。睡眠中は胃液でウイルスを処理し、腸に侵攻したウイルスは蠕動運動で肛門側へ追い出しますが、昼飯で胃液が薄まると共に、鼻副鼻腔炎で、ウイルス含有分泌物である後鼻漏が嚥下され、腸へのウイルス侵攻が促進されます。さらに、後鼻漏と共に空気も嚥下されて腹満となり、ウイルスを追い出す蠕動運動が阻止されます。拡張した腸管内にウイルスが蓄積し、IL-1による体温上昇、食欲低下、睡眠が誘導され、三四郎は昼飯後に眠ります。
 ウイルス増殖が抑えられて発汗解熱すると、脱水に傾いて気が疎くなり、水分回収の進行で便硬度も増します。腸管内のウイルスが再び増加し、三四郎は、与次郎との会話中にもIL-1の作用で発熱し、夕方まで寝込みます。往診医は、腹満の程度や便性など病態確認に重要な所見が採れていません。
 三四郎は、目覚める度に水分補給して厠に登り、作者漱石に倣って、西大寺公望公からの招待であろうと断る決意で踏ん張るべきでした。食事は避けて脱水予防に努めるのが妥当でした。漱石の筆裁きは敢えて病勢を強めていますが、主人公だけに、それからは「飯も食わずに、仰向けに天井をながめ、寝たり覚めたりするうち、自然に従う一種の快感を得て」インフルエンザを克服させました。

三 インフルエンザと自然治癒力

 インフルエンザの治癒はウイルス及びウイルス感染細胞の排除を意味しますが、感染細胞処理では、個体の生命を守るために最前線の気道や消化管の細胞を犠牲にします。体内へのウイルス負荷や自己細胞の犠牲を最小限にするには、ウイルスの侵入を最小限に止めて排泄を最大限にする自然治癒力が不可欠です。すなわち、蒸タオル等で加温加湿された空気を吸入して鼻副鼻腔機能を保護し、後鼻漏と空気の嚥下による消化管へのウイルス蓄積や、後鼻漏の誤嚥による下気道へのウイルス蓄積を防ぎ、水分糖分電解質補給で脱水を回避しながら、気道や消化管から可及的にウイルスを追い出すことが大切です。インフルエンザを含め、あらゆる風邪の重症度は自然治癒力とそれを支える生活習慣で決まります。

四 インフルエンザと別離

 明治二六年七月、帝国大学を卒業した漱石は、学習院出講を望み、前年に帝国大学文化大学哲学科を卒業して学習院嘱託教授に就いていた立花銑三郎に周旋を依頼します。英文学者を目指す漱石は出講を確信し、教場に出るためのモーニングまで誂えましたが、立花らの周旋は実りませんでした。十月から高等師範学校英語嘱託となりますが、教育者に不向きと自認する漱石には窮屈な所でした。
 また、その頃、漱石は、友人の小屋保治と共に、宮城控訴院々長、大塚正男の一人娘、楠緒子の婿候補でした。明治三九年一月九日付書簡で「其時今の大塚(小屋)君が新しい革鞄を買って帰って来て明日から興津へ行くんだと吹聴に及ばれたのは羨ましかった。やがて先生(小屋)は旅行先で美人(楠緒子)に惚れられたという話を聞いたら猶うらやましかった。」と回想しています。二人はライバルでしたが、明治二八年三月、楠緒子が結婚したのは保治でした。
 進路、就職、結婚という人生の転機を思うに任せず、明治二八年四月、漱石は愛媛県尋常中学校へ向かいました。
 時は過ぎ、学習院在職のまま渡欧していた立花は、明治三四年一月、オーストリアなどを旅します。英国留学中の漱石にも、出発を知らせる年賀状がベルリンから届いていましたが、立花は旅行中、明治三三年(1900)に始まっていたパンデミックに巻き込まれます。極寒のベルリンで病勢は止まらず、三月上旬、遂に帰国を命ぜられました。
 三月下旬、立花はアムステルダムから常陸丸に乗船します。漱石は立花から手紙を受け取ると、アルバート・ドックに停泊中の常陸丸に駆けつけました。しかし、「立花ノ病気ハダメナリトアリ気の毒限ナシ」と落胆するのみでした。五月十二日、立花は上海沖の船中で死去、享年三五歳でした。インフルエンザ肺炎から二次性細菌性肺炎を併発して呼吸不全に至ったと推定されます。
 さらに時は流れ、漱石が東京朝日新聞社小説記者になった頃、文芸上も交流が続いていた大塚楠緒子に結核の影が忍び寄ります。明治四一年五月十一日付楠緒子宛書簡では転地を考えていたこともが窺えますが、明治四三年三月、楠緒子はインフルエンザに罹患して結核を悪化させます。高輪病院へ入院後、大磯大内館で静養に努めましたが、寛解に至らず、大磯と高輪病院の往復は三度に及びました。
 修善寺の大患後、長与胃腸病院で療養中の漱石が、新聞で楠緒子の訃報に接したのは十一月十三日でした。十五日にはその死を悼み、「あるほどの菊抛げ入れよ棺の中」など三句詠みました。インフルエンザウイルスは免疫抑制作用があり、罹患を契機に結核が増悪、肋膜炎に進展したと推定されます。享年三六歳でした。

五 まとめ

 インフルエンザとパンデミックの歴史を概観し、「三四郎」に描かれたインフルエンザを感染免疫学の立場から検証しながら、自然治癒力とそれを支える生活習慣の重要性にも言及しました。漱石の周辺でも、生涯の重要な転機に登場した立花銑三郎や大塚楠緒子がインフルエンザを契機に急逝し、深い感慨を残しました。

 参考図書

 夏目漱石:三四郎(岩波文庫) ; 岩波書店、一九九〇
 荒 正人: 増補改定 漱石研究年表; 集英社、一九八四
 原武 哲:喪章を着けた千円札の漱石 伝記と考証; 笠間書院、二〇〇三年
 小坂 晋:漱石の愛と文学; 講談社、一九七四年
 漱石全集:第二二巻 書簡上;明治二十二年-明治三十九年;岩波書店、一九九六年
 漱石全集:第二三巻 書簡中;明治四十年-明治四十四年;岩波書店、一九九六年
 夏目漱石:漱石日記 平岡敏夫編; 岩波書店、一九九〇 3130

   (医療法人操南ファミリークリニック)



虞美人草 「京都漱石の會」会報 《第5号》 p.8-9 より



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